比嘉琴子の生死は映画内で明確にされていませんが、彼女が「あれ」に立ち向かった後の描写が不明瞭なため、観客の解釈に委ねられています。原作では「あれ」に勝利するため、生きている可能性が高いです。
映画『来る』の気まずいシーンとして、田原香奈(黒木華)と津田大吾(青木崇高)のラブシーンが挙げられます。不倫関係を暗示するこの場面が、物語の流れを遮り、不自然で気まずい印象を与えています。
この記事ではホラー映画のネタバレ考察を専門としている「ホラーズシネマ編集部」が、映画『来る』の疑問や謎をわかりやすく考察・解説していますので、ぜひ最後までご覧ください。
映画『来る』のネタバレ考察
ひどいと言われるのなぜ?
『来る』が「ひどい」と言われる理由は、俳優陣の演技に深みが感じられないことや、ホラーとしての緊張感が薄れ、コメディのように受け取られるシーンがあるからです。
物語の序盤はホラー映画としての不気味な雰囲気が描かれますが、後半に進むにつれて展開が過剰になり、霊媒師たちの集団登場や戦闘シーンが滑稽に感じられる部分が批判の対象となっています。また、登場人物たちの言動や関係性が複雑かつ非現実的で共感しづらい点も、観客に違和感を与えます。ホラーを期待していた観客にとっては、不自然な演出や方向性のぶれが「ひどい」と評価される要因となっています。
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気まずいシーンの内容は?
『来る』には、田原香奈と津田大吾のラブシーンがあり、それが気まずいシーンとして挙げられます。物語の展開上、彼らの関係が不倫を暗示していることが、観客に不快感を与える要因です。
このラブシーンは、田原香奈の夫・田原秀樹が子育てに非協力的であるという家庭環境の崩壊を示す重要な要素です。しかし、不倫というテーマが挿入されることで物語の焦点がぼやけ、ホラー映画としての緊張感を削いでしまうと感じる観客も少なくありません。また、ラブシーンの描写がやや唐突であるため、観る側にとっては「必要だったのか?」と疑問を感じる気まずさが残ります。
このシーンが映画の評価を分ける一つのポイントとなっています。
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琴子は最後に死んだのか?
比嘉琴子の生死は映画内では明確に描かれておらず不明ですが、原作では「あれ」に勝利しているため、生きている可能性が高いと考えられます。
映画のクライマックスで琴子は「あれ」に立ち向かいますが、その後の具体的な結果は描かれず、観客の想像に委ねられています。しかし、原作小説『ぼぎわんが、来る』では琴子が「あれ」に勝利していることから、映画でも同様の展開であると考えられます。彼女の強力な霊能力や、決死の覚悟で戦った姿からも、完全に負けたとは考えにくく、生存の可能性が示唆されています。
映画の曖昧な結末が、観客に解釈の余地を残し、不気味な余韻を生んでいます。
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最後のオムライスの歌のネタバレは?
最後に田原知紗が歌う「オムライスの国に行きたいな」という歌は、「死後の世界に行きたい」という意味にも解釈でき、子供の純粋さの中に潜む闇を象徴しています。
このシーンは、物語全体の不気味な終わり方を強調するものであり、知紗の無邪気な歌声が、観客に強烈な違和感と不安を残します。子供らしい可愛らしい言葉の裏に、彼女自身が「あれ」との対峙を経て見たもの、もしくは現実から逃れたいという願望が反映されているとも考えられます。また、「オムライスの国」という一見無害なフレーズが、死や闇を示唆することで、子供の純粋さがホラーとしての恐怖を引き立てる役割を果たしています。
この歌は、観る者に考察の余地を残し、物語の締めくくりとして非常に印象的です。
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あれの正体は?
「あれ=ぼぎわん」の正体は映画内では明確に描かれず、人の心の闇が生み出したもの、または捨てられた子供の亡霊とも考えられる存在です。
劇中では「あれ」が直接的に姿を見せることはなく、恐怖や災いをもたらす存在として描かれています。「あれ」は、人々の心の闇や罪悪感、負の感情に付け込み、拡大していく存在とも解釈できます。また、一部では捨てられた子供の霊が「ぼぎわん」として生まれ変わったという説もあり、その正体は曖昧に保たれています。
この不確かな描写が、観客の想像力を掻き立て、より一層の恐怖感を生み出す要因となっています。
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イライラすると言われるのはなぜ?
『来る』が「イライラする」と言われる理由は、夫・田原秀樹が子育てに協力せず、妻・田原香奈が不倫に走るなど、登場人物の言動が観客の共感を得られないためです。
田原秀樹は子育てや家庭を顧みず、自己中心的な言動が目立ちます。一方で妻・香奈は、夫への不満や孤独感から不倫関係に陥り、家族関係が崩壊していく様子が描かれています。これらの行動が「あれ」に狙われる原因とも暗示されており、物語の進行と共に登場人物たちの未熟さや不誠実さが際立ちます。観客はその様子に苛立ちを覚え、ストーリーそのものに不快感を抱くことが多いようです。
この人間ドラマのリアリティが、逆に物語への評価を分ける要因となっています。
意味がわからないと言われるのはなぜ?
『来る』が「意味がわからない」と言われる理由は、物語の核心である「あれ」の正体や登場人物たちが狙われた理由、比嘉琴子の生死が曖昧に描かれ、解釈が観客に委ねられているためです。
「あれ」がなぜ田原家を襲うのか、また琴子が最終的に「あれ」に勝ったのか負けたのかが明確に示されないため、物語の結末に対する理解が観客ごとに異なる結果となっています。また、超常現象と人間の心の闇を融合させたストーリー展開が複雑であり、説明不足な部分が多く残ることで「意味不明」と感じる声が多くなっています。こうした不明瞭な要素が、物語全体の解釈を難しくし、観客の混乱を生んでいます。
この作品は考察が必要な映画であり、理解が分かれる部分が多いことが特徴です。
霊媒師たちは本物なのか?
映画に登場する大勢の霊媒師たちは、演出的な存在として描かれており、本物の霊媒師ではない可能性が高いです。彼らの行動が「あれ」に対して決定的な効果をもたらしていないことが、その理由です。
終盤では、霊媒師たちが大規模な儀式を行い「あれ」に立ち向かいますが、そのシーンは過剰で滑稽にも見え、観客に疑念を抱かせる演出となっています。彼らの必死の祈祷や儀式も、最終的には「あれ」を完全に退けることができておらず、その効果には疑問が残ります。この描写は、霊媒師たちが象徴的な存在であることを示唆し、現実と超常現象の曖昧な境界線を表現するものとも捉えられます。
彼らの登場は物語の緊迫感を演出する一方で、本質的な解決には至らず、観客の解釈に委ねられています。
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